7月14日にパーキンソン病のため75歳で他界したマサ斎藤さんの告別式が22日、都内で執り行われた。その日、アントニオ猪木がSNSで機上の姿とともに「マサくん、安らかに眠ってください。元気に旅立った事と思います」と偲んでいる。
マサ斎藤さんは明治大学の学生だった1963年にレスリング全日本選手権のフリースタイル及びグレコローマンのヘビー級で優勝、1964年の東京オリンピックに日本代表で出場した。大学を卒業し1965年に日本プロレスに入るが、翌年6月に離脱して豊登とアントニオ猪木を主力とする新団体・東京プロレスに参加した。
東京プロレスではアントニオ猪木、豊登に次ぐポジションで活躍するも、翌年には団体が崩壊してしまう。所属レスラーの多くが国際プロレスへ移籍、猪木は古巣の日本プロレスに戻るが、斎藤さんは渡米の道を選びフリーランスの一匹狼として「ミスター・サイトー」や「マサ・サイトー」のリングネームでヒール役に徹した。
アメリカで活躍した後、1972年に帰国すると日本プロレスや新日本プロレスに参戦しており、1983年から長州力の「維新軍」に関わり「アントニオ猪木・藤波辰巳」との軍団抗争や「ジャンボ鶴田・天龍源一郎」との対戦が思い出される。
そんななか1987年10月4日に巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは『巌流島の戦い』と呼ばれ、プロレス史に残る一戦となった。
アントニオ猪木はマサ斎藤さんを偲んで「語ればきりなく色々思い出しますが」とつぶやき、