歌手の一青窈が縁の深い福岡のバラエティ番組に出演して、歌手となったきっかけや、楽曲『もらい泣き』や『ハナミズキ』がヒットした頃の苦悩を語った。歌い過ぎて声が出なくなり「このままじゃ、業界から消される」と危機感を覚えた時期もあり、彼女のトレードマークとなった裸足で歌うスタイルで大変な目にあったことも一度や二度ではないらしい。
台湾人の父と日本人の母を持つ一青窈は、1976年に東京で生まれるが、幼少期は台湾の台北で育った。彼女は台湾へ行って日本へ戻る際に、福岡にいる親友を訪ねるのが常だという。そんな縁のあるエリアの番組『ナイトシャッフル』(FBS福岡放送)に11月30日の放送で出演した。
小学校の時に父親、高校生で母親を失くした彼女は、高校時代に音楽療法に興味を持ち「薬ではなく音楽で癒されたい。ミュージックセラピーをやりたい」と考えるようになった。建築音響を学ぼうと18歳で早稲田大学の建築学部を受けるが失敗。半年の浪人生活を経て、AO入試(自己推薦入試)で慶應義塾大学環境情報学部に入る。「ミュージックセラピーをやりたい」と『サウンド・オブ・ミュージック』を歌ったそうだ。
大学ではアカペラサークルに所属してライブハウスやストリートで音楽活動を本格化、歌手を目指して数々のオーディションを受けるがすべて落ちた。大学卒業後は家庭教師のアルバイトをしながら音楽活動を続ける。車イスに乗る人たちとバンドを組んでおり、耳の不自由な人を観客にパフォーマンスする活動もしていた。「みなさんに、(風船よりも薄いため)コンドームをお配りして、膨らませて抱いてもらうと、歌の振動が伝わる。手話の人から歌詞を伝えてもらう」という手法をとった。
それを見ていた今の事務所の社長が、「プロデューサーの武部聡志と知り合いなんだが、あなた、歌手にならないか?」と声をかけてくれた。一青窈が22歳の時だ。
その後、いくつかのオーディションを経て2002年10月30日に1stシングル『もらい泣き』でデビューを果たすと、裸足で歌うスタイルも注目されて人気が急上昇。テレビの歌番組への出演もひっきりなしだった。
ところが、彼女は「“もらい泣き”の時に、歌い過ぎて声が出なくなった」と明かす。肝心なフレーズとなる“ええいああ”の“ああ”が出なくなったという。リハーサルで声が出なくなった彼女は楽屋に閉じこもり「ボロボロ涙を流して、“こんなんじゃ、私はこの業界から消されるな”と考えた」ほどだ。膝を抱えて「神様、“ああ”が出ますように」と祈る外では、マネージャーがドアを叩いて呼んでいた。結局、本番でも声は出なかった。あの『もらい泣き』のヒットの裏でそんな辛い出来事もあったのだ。
2004年2月11日に出した5枚目の『ハナミズキ』も大ヒットとなった。この頃には“一青窈は裸足で歌う”とのイメージが定着しており、あるテレビ番組で「真冬の中、“ハナミズキ”を離島で歌ってくれ」と言われたことがある。公園の池の真ん中に島があり、そこにボートで渡されると霜柱が立っていた。彼女が「え、本当ですか?」と訴えるが番組側は無言でうなずくだけ。言葉には出さないが「靴はもちろん脱ぎますよね!?」と迫ってきた。しかも、靴を引き受けるスタッフもいて、彼女の靴は船で島を離れていく。
結局、「霜柱はNG」とも言えずに『ハナミズキ』を歌ったという一青窈。「他にも、けっこうな場所で、裸足を要求されました」と当時を振り返った。裸足で歌うのは“集中するため”、“精神統一するため”だと言われるが、靴を履きたくても履けない事情もあったようだ。
そんな一青窈の7枚目のアルバム『私重奏』が10月22日にリリースされた。ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』の主題歌に起用された『他人の関係 feat. SOIL&“PIMP”SESSIONS』も収録されている。同曲のミュージックビデオでは、彼女もさすがに靴を履いて歌っている。そろそろ“裸足で歌う”イメージも薄れてきたのかもしれない。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)