イギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)のリーダーでギタリストのジミー・ペイジが、NHK総合『SONGS』でバンドの音楽性が酷評されて窮地に立ったことや、ドラマーのジョン・ボーナムの死により解散にいたった経緯などを語った。日本武道館で行ったコンサートが新たなツェッペリンの始まりだという彼は、今回の収録でその武道館も訪れている。当時を振り返りながら、自身の意見や感情をより表に出してインタビューに答えてくれた。
日本でも海外の三大ギタリストに数えられるほど人気のあるジミー・ペイジだが、10月25日放送の『SONGS』でレッド・ツェッペリンを語る彼を見ると、プロデューサーとしての役割が大きかったことを改めて感じた。
ジミー・ペイジはギタリストとしてセッションに参加したり、伝説のバンド、ヤードバーズに加入するなどすでに実績があった。その彼が見込んだ年下のミュージシャンたちに声をかけて1968年にレッド・ツェッペリンを結成する。彼は当時から「ベースとドラムの音の質感を活かしてパワフルな音楽をやりたい」と考えており、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース、キーボードなど)とジョン・ボーナム(ドラムス)の才能に注目していた。
その年に、全米制覇を目指して米国のレコード会社と契約。1969年1月に出したデビューアルバム『レッド・ツェッペリン I』がヒットすると、ツアーの合間に1曲ずつレコーディングする驚異的なスケジュールで10月に2枚目のアルバム『レッド・ツェッペリン II』をリリースする。アルバム制作の中心となったジミーは「とにかく、働いて、働いて、働いた」とその頃の多忙ぶりを表現した。その『レッド・ツェッペリン II』は全米1位の大ヒットとなり、ツェッペリンも英国で音楽誌の人気投票でビートルズを抜いてトップとなった。
ところが、1969年に米国でウッドストック・フェスティバルが開催されて状況が変化する。ベトナム戦争反対や愛と平和が謳われ、アメリカンロックが勢いを取り戻すのだ。ブリティッシュロックであるレッド・ツェッペリンには逆風となった。ジミーは「レッド・ツェッペリンに対する批判の中心はLAにあった。『ローリング・ストーン』誌がその発信源だった」と証言する。そこには「過剰さが鼻につく」、「説得力のないボーカル」、「インパクトが弱い曲」といった酷評が並んだ。
そんな中で、彼らはアコースティックサウンドを大胆に取り入れた3枚目の『レッド・ツェッペリン III』を制作するが、これが裏目に出てファンからも戸惑いの声が聞かれた。「俺たちの音楽は、どこへ向かえばいいのか?」と苦悩したジミーは、田舎での1か月間の合宿を思いつく。バンドの音楽やアルバム制作はこれまでジミー・ペイジが主体だったが、「朝、起きたら音楽をやっていた」というその合宿生活ではメンバーそれぞれから新たなアイデアが生まれ、4人が結束するきっかけとなった。
楽曲『天国への階段』はそんな4人の絆から生まれた。ジミーは「『天国への階段』の原案は私だが、みんながお互いに刺激を受けてできた」「この曲の構成や曲調をつかむために4人でかなりの練習をした」という。
1971年に初来日したレッド・ツェッペリンが日本武道館で公演を行った時、この楽曲は日本初披露だった。ジミーは日本のファンの反応を「最後にはとても盛り上がってくれたよ」と今でも覚えており、「あれこそが、新たなレッド・ツェッペリンの始まりだったんだ」と語る。彼はその時、『天国への階段』によって窮地から再起したことを確信したのだ。
その年、レッド・ツェッペリンは『天国への階段』をはじめ、『ブラック・ドッグ』、『ロックン・ロール』といった名曲を含む4枚目のアルバム『レッド・ツェッペリン IV』で米国歴代3位となるヒット記録を打ち立てる。あれほど酷評していた批評家も彼らを高く評価するようになった。『聖なる館』、『フィジカル・グラフィティ』、『プレゼンス』とリリースするアルバムは、どれもロックのお手本とされるほどとなった。
しかし、絶頂を極めたレッド・ツェッペリンを悲劇が襲う。1973年、喉に支障をきたして手術に踏み切ったロバート・プラントが75年に自動車を運転中に事故に遭って重体となる。77年にはロバートの声が回復の兆しを見せるが、その矢先に彼の長男がウイルス性感染症で亡くなってしまう。バンドはその後の活動を無期限で休止し、1979年にようやく復活コンサートを含んで4回だけライブを行った。1980年にはヨーロッパツアーを終えると、アメリカツアーへ向けてリハーサルを始めた。
1980年9月24日にリハーサルの後で、ジミー・ペイジ宅に集まってパーティーをした際に、ジョン・ボーナムは深酒をして酔いつぶれ、ベッドに寝かされた。翌25日にジョン・ポール・ジョーンズらが、ベッドで息を引き取ったジョンを発見。喉にものを詰まらせて窒息したのが死因とされる。レッド・ツェッペリンはジョン・ボーナムが亡くなった年の12月4日に解散を発表した。
ジミーはインタビュアーから自宅でジョン・ボーナムが亡くなったことについてどう思うかと問われて、しばし沈黙すると「君はどう思う? どうだろうか?」と問い返し「彼は血を分けた兄弟も同然だった」と語った。さらに彼は、ロック界にとってジョン・ボーナムの死は大きな損失だと続ける。ジョン・ボーナムが抜けて、代わりなどは存在しない。ジョン・ポール・ジョーンズの代わりも、ロバート・プラントの代わりもあり得ない。「4人そろってこそレッド・ツェッペリン」だと断言する。
解散から27年が経った、2007年12月10日。レッド・ツェッペリンを応援してくれたアトランティック・レコードの創始者が亡くなったことから、追悼チャリティーライブを開催。ジョン・ボーナムの息子、ジェイソン・ボーナムがドラマーを務めて、1夜限りの再結成となった。父の姿を見て育ったジェイソンのドラムは父親の生き写しだった。
ジミーはジェイソンを迎え入れての再結成について「ジョンの息子としてだけではなく、我々、レッド・ツェッペリンの仲間になってもらいたかった」と語る。彼はその時のことを、「ジョンが天国から見ていて『ジェイソンよくやった!』と声をかけているのを感じたよ」と明かしている。
ジミー・ペイジは、現在、レッド・ツェッペリンの最新デジタル・リマスターによるオリジナル・アルバムを監修。今年の6月に初期3作が発売されており、10月29日には『レッド・ツェッペリン IV』と『聖なる館』がリリースされる。起死回生の楽曲となった『天国への階段』をはじめ、ジョン・ボーナムのドラムを改めて堪能するチャンスだ。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)