いよいよ32年の歴史に幕を閉じる『笑っていいとも!』だが、番組終了の前に改めてその功績について考えてみたい人物がいる。それは、2011年にこの世を去った横澤彪さんだ。1980年代にフジテレビは『いいとも!』や『オレたちひょうきん族』などのヒット番組を生み出したが、横澤さんはその仕掛け人でもある。
1981年にフジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」をスローガンとし、それ以降『森田一義アワー 笑っていいとも!』や『オレたちひょうきん族』などの大ヒットバラエティ番組を次々と制作していった。横澤彪さんは両番組のプロデュースを手掛けたのだが、他にも「漫才ブーム」の引き金となった番組『THE MANZAI』にてプロデューサーを務めるなど、80年代のフジテレビ大躍進を支えた人物だ。
1982年にスタートした『笑っていいとも!』で、横澤さんは司会者にタモリを抜擢した。タモリはテレビ番組でよく「(『いいとも!』が始まる前の自分は)今の江頭2:50のような芸風だった」と発言しているが、それを踏まえると“お昼の顔にタモリを選ぶ”ことがいかに冒険的だったかが分かる。しかし『いいとも!』が始まってからわずか3日で、横澤さんは「これはいける」と手ごたえを感じたそうだ。放送作家だった故・景山民夫さんの著書『極楽TV』(新潮文庫)の中に収録された対談で、横澤さんはその理由を次のように語っていた。
「結局、昼に森田一義という新しいキャラクターを作ってやれば、昼向きの顔が出来るんじゃないかと。タモリのファクターを増やしてやればいいんじゃないかと。」
つまり、密室芸などのマニアックな芸風で人気を獲得してきたタモリではなく、“森田一義”としての一面を『いいとも!』では見せてくれると横澤さんは確信していたのだ。その見立ては当たり、タモリは“森田一義”というキャラクターに32年間もなりすまし続けてお昼の顔となった。
また横澤さんは『楽しくなければテレビじゃない』(フジテレビ出版)の中で、『いいとも!』のコンセプトと魅力について以下のように述べていた。
「『笑っていいとも!』はサーカス小屋、放送はつまるところイベントなんですね。イベントと言っても、同時進行だから裏側にドキュメントがあるし、このドキュメントであることを視聴者に見せなければならない。」
台本が存在しながらも、生放送であるがゆえに予期せぬハプニングも起こる。そういったもの全てを楽しむのがテレビだとの横澤さんの指摘は、最近の『いいとも!』で木梨憲武らによるサプライズなどを見ていても実感することができた。
『笑っていいとも!』の方針を作ってきた横澤さんだが、2011年に惜しまれつつ亡くなった。それから3年が経過した2014年の3月31日に、『いいとも!』は32年の歴史に幕を閉じる。その日、最後の「テレフォンショッキング」のゲストは『THE MANZAI』や『オレたちひょうきん族』などの主要キャストで横澤さんとも親交のあったビートたけしだ。共に80年代のバラエティ番組を作ってきた“タモリとたけしのトーク”を、横澤さんは天国から見届けることだろう。
(TechinsightJapan編集部 TORA)