エンタがビタミン

writer : maki

【エンタがビタミン♪】浜田麻里がヘヴィメタル・クイーン時代の苦悩語る。「スタジオのトイレで泣いたこともある」

ロック歌手の浜田麻里がNHKの音楽番組『SONGS』でヘヴィメタル・クイーンと呼ばれて人気を手にしながら、さらに歌手としての幅を広げるために単身で米・ロサンゼルスに渡った時代を振り返った。歌手生活30年を迎えながら年齢を感じさせない彼女は「歌で何かを表現するという使命を持って生まれてきた」という。そのためには何度か“決断せねばならない瞬間”もあったようだ。

ここ2年で、オリジナルアルバム『Legenda』(2012年発売)やベストアルバム『INCLINATION III』(2013年8月) 、『MARI HAMADA COMPLETE SINGLE COLLECTION』 (2014年1月8日) と立て続けにリリースした浜田麻里。彼女が2013年にデビュー30周年を迎えたこともあってか、テレビでも歌の祭典や音楽番組で見かけるようになった。

1988年にソウルオリンピックNHKテーマソングとなった『Heart and Soul』や翌年に大ヒットした『Return to Myself ~しない、しない、ナツ。』などを知る世代は、その歌声ばかりか容姿まで変わらないことに驚いたのではないだろうか。

2014年2月1日の『SONGS』はその浜田麻里を特集した。

1962年生まれの彼女は小学生から合唱団で歌い、中学生の時にはCMソングを担当。“日清サラダ油セット”や“ルナマイルド”といった歌は今も覚えているという。毎日、テレビから自分の歌声が流れている日々を体験して、彼女は「当たり前にプロになろうと思っていた」そうだ。

昨年、『浜田麻里デビュー30周年ツアー』を行った彼女は番組のインタビューに「人前で歌を歌って何かを表現する。そういう使命を持って生まれたと思っている」と語った。中学生でCMソングを歌った頃から彼女の中にはそうした使命感があったのかもしれない。

学生時代に誘われたバンドで当時人気のあったディープ・パープルなどの楽曲を知り、ハードロックに目覚める。やがてソロデビューするが“麻里ちゃんはヘビーメタル”というキャッチコピーからも分かるように世間からは「どうせ、作られたアイドルだろ?」という目で見られることもあった。逆に歌で勝負しようと頑張れば「うるさいヘビメタでしょ」と言われて悩んだ。

それでも彼女は「自分で道を切り拓くしかないんだ」とめげずに歌い続けたことで、次第に実力が認められて“へヴィメタル・クイーン”と呼ばれるまでになった。1985年にファーストシングル『Blue Revolution』を出してこれから活躍が始まるかという時だ。1987年には海外レコーディングするために、単身でロサンゼルスに渡った。

「何とかして一新しないと、このままでは消滅するのが見えていた」と浜田麻里は渡米の理由を明かす。“へヴィメタル・クイーン”と呼ばれながらも彼女は危機感を持っていたのだ。「ヘヴィメタルという狭い世界にとどまらず、より幅を広げたいと思った」ことから海外レコーディングに踏み切ったのである。

番組ではLAロケを敢行して、その当時から20年来のつきあいとなる有名なエンジニア、ビル・ドレッシャーさんのもとを訪れている。彼の力を借りながら浜田麻里は自分で作品をプロデュースしてきたのだ。

ビルさんは「彼女のハーモニーの組み立ては芸術的だ」と浜田がトラックの組み合わせによってハーモニーを作り出すセンスを「驚くべき才能だ」と絶賛。さらに横に座った浜田麻里を見ながら「思うに、あと30年続けても、ルックスはきっと変わらないよ!」とその美貌も称賛していた。

レコーディング・スタジオ(当時はランボー・レコーダーズ)にはキッス(KISS)やハート(Heart) 、ガンズ・アンド・ローゼズなどのアルバムジャケットと一緒に浜田麻里のジャケットも並んでいる。ここに、一流のプロデューサーとミュージシャンが集まり、レコーディングを行って完成したのが『Return to Myself ~しない、しない、ナツ。』だった。

しかし、それは簡単なことではなかったのだ。彼女は一流だからといって彼らにまかせていては自分が求める音楽はできないことに気づく。「結局、人まかせにはできない。自分でジャッジして自分自身の未来を構築するために、自分で作っていくしかない」と分かった彼女は自分の意見を強く主張したのだ。

「最初は、うまくコミュニケーションがとれずにトイレで泣いた日もあった」と当時の苦労を明かす浜田麻里は、「待っていたりしては何も変わらない。この曲でつかんだ成功は私に大きな自信を与えてくれた」と『Return to Myself~』への特別な思いを語った。

ところが、その曲のヒットで売れっ子となった彼女は多忙なスケジュールで心身ともずたずたとなり、1993年に日本でのライブ活動を休止する。作品の売上げも減ってしまい周囲のスタッフも離れていった。「正直、寂しかった。スタッフが1人ずつではなくいっぺんにいなくなった」という状況だったようだ。しかし、負けず嫌いの彼女は「こういう状況だからこそ、頑張ろう。1人でやるよ!」と諦めなかった。

それから9年を経て、2002年に赤坂BLITZでコンサートを行ったのはファンの応援があったからだ。チケットも即日完売で満員となった。浜田はその時、「求められるのが幸せなことだと、本当の意味で気づいた」という。

そうやって30年間歌い続けてきた浜田麻里だが、なぜか恋愛スキャンダルは耳にしない。しかし、彼女にもそうした局面はあったようなのだ。浜田は「他の女性とは全然違う生活を選んでしまった」と半生を振り返り「何度か決断してきた。その決断の中で寂しくなかったかといえばウソになるかもしれない」と語っている。

「いつも私を待ってくれる人たちがいる。そんな人たちに力をあげる歌を歌いたい。だから、私の歌は今、よりハードになっている」という浜田麻里は本当にあと30年歌い続けてくれそうだ。

※画像はYouTubeのスクリーンショット

(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)