“欽ちゃん”の愛称で知られる萩本欽一が『笑っていいとも!』に初出演した。その際にタモリの口から“ピンマイクを初めてテレビに持ち込んだ”ことを明かされた萩本だったが、実はそれ以外にも数多くのものを発案してきたのだ。
2月14日に放送された『笑っていいとも!』の名物コーナー「テレフォンショッキング」に、萩本欽一がゲストとして初出演を果たした。まず“萩本宅をタモリが初めて訪問した”時のエピソードが披露された。萩本が作った放送作家集団「パジャマ党」の一員だった大岩賞介氏から「(仕事場とタモリの家が)近所だから一度遊びにおいで」と言われたタモリは、「萩本さんがそこにいる」と考えもせずに軽い気持ちで訪れたそうだ。こういった経緯で実現した“タモリの初訪問”は大いに盛り上がり、朝方まで続いたと萩本とタモリは当時のことを楽しそうに振り返った。
その後タモリが「(萩本さんが)この世界で初めてやったことが多いんですよ」と、テレビ業界での萩本の功績について触れた。タモリは今や当たり前となっている「ピンマイク」をテレビに初めて持ちこんだのが萩本だと解説したが、これを聞いたスタジオの観客たちは驚きの声を上げていた。萩本は「わりとみんなが(萩本が)最初だって言ってくれるから、まぁ最初に(ピンマイクを導入したのは自分に)しとこうかってね」と照れ笑いを浮かべながら、タモリの指摘を肯定した。
昨年4月に放送された『もてもてナインティナイン~テレビの人気者たちに学んでほしい 萩本欽一&手塚治虫SP』(『もてナイ』)においても、萩本が発案した手法が紹介されていた。1971年にスタートしたオーディション番組『スター誕生!』で初の司会を任された萩本は、会場に来た観客たちが審査を待つ間に退屈しないようにと“観客イジり”を始めたが、これが今のテレビではおなじみの「素人イジり」の原点となったという。さらに「夜の9時台にバラエティはタブー」というテレビ業界内の“暗黙の了解”を打破するために、萩本は1976年にスタートした『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で“ホームドラマ風のバラエティ番組”に挑戦。萩本の試みは見事大成功を収め番組の出演者たちは「欽ちゃんファミリー」と称されるようになったというが、これこそ『クイズ!ヘキサゴンII』のような“番組内でスターを作っていく”バラエティ番組の源流といっていいだろう。その他にも数多くの発案が『もてナイ』の中で紹介されていたが、萩本は“英雄”扱いされるのを拒み「マヌケとかってつけて紹介してよ」とお願いするなど、どこまでも謙虚に自分の足跡について語っていた。
1985年に出版された『笑学百科』(新潮文庫)の中で、作家の小林信彦氏は「テレビにおける笑いの変化を、もっともつきつめて考えている」と萩本を高く評価していた。その小林氏の言葉通り、萩本はバラエティ番組にさまざまな点で貢献してきた。そんな萩本欽一が『いいとも』初登場で、「お昼の顔」としてバラエティ番組の礎を築いてきたタモリとの見事な掛け合いをお茶の間に届けてくれたのだ。
(TechinsightJapan編集部 TORA)