ベースのIKUZONEこと馬場育三さんが亡くなってから1年間、ライブ活動を行わなかったDragon Ashが5月25日・26日に都内で開催された『TOKYO METROPOLITAN ROCK FESTIVAL 2013』で初日のステージに立った。悲しみを乗り越えてバンド活動の継続を決意するまでに、メンバーの中では様々な葛藤があったことだろう。同日の夜、NHKで放送された『SONGS』に出演したKjから活動再開への思いが語られた。
1997年にミニ・アルバム「The Day dragged on」でメジャーデビューしたDragon Ash。初期メンバーはKj(降谷建志)、桜井誠そして昨年の4月21日に急性心不全のため亡くなったIKUZONE(イクゾーン)こと馬場育三さんだった。
5月25日の『SONGS』(NHK)では、今年の3月に活動再開を宣言したDragon Ashにスポットを当てた。「バンドマンの生活で、メンバーが志半ばで去ることほど悲しいことは無い」とKjはIKUZONEを亡くした悲しみの深さを話す。
バンドがデビューした時に18歳だったKjにとって、一回り年上だったIKUZONEは兄貴的な存在だった。当時のKjはIKUZONEを「生まれて初めて会った、実在するバンドマンとしての生き方をしている人だった」と捉えており、レコーディングの仕方から機材の“ツマミ”の扱い方まで教わったという。
1999年にはBOTS(DJ)が正規メンバーとなり、4thシングル「Let yourself go, Let myself go」がヒット。同年に5thシングル「Grateful Days」と3rdアルバム「Viva La Revolution」がオリコン1位の大ヒットとなる。その後、2003年にはギターのHIROKIとダンサーのDRI-V、ATSUSHIが正式メンバーとなり新たなバンドスタイルを確立する。
サウンドもラテンのリズムを取り入れるなど斬新な変化を見せて、名実共に日本を代表するロックバンドとなっていった。IKUZONEが亡くなったのはそんな時だったのである。彼の訃報をマネージャーからの連絡で知ったドラムの桜井誠は「本当によくわかんないですよ。正直、何が起きたのか。気が動転してしまって」と当時の心境を語った。
その気持ちは他のメンバーも同様だろう。バンドの解散は否定したが、活動を再会するまでには1年の時間を要したのだ。では、どういう思いでそれを決意したのか。Kjはその胸のうちを次のように明かしている。
「続けたくても続けられない人をたくさん見てきた」という彼は、これまでに『一生バンドやろうな!』といいながら、仕方なく辞めていくミュージシャンの背中を何十人と見送った。そんな経験があるからだろう。「金払ってライブに来てもらってるのに、こっちから『疲れた』とか『やり切った』とかの理由でステージを降りることは、俺にとってあり得ない」という。
また、「必要じゃなくなったら、誰もCD買わなくなるし、勝手にライブに来なくなると思う。その時は『やり切った』と思えるかな」とファンがいる間は辞めるべきではないと考えているようだ。IKUZONEを亡くした悲しみと辛さを乗り越えてバンド活動を再開したのも、応援してくれるファンがいながら自分たちの思いで一方的に辞めるべきではないという結論に至ったのだろう。
Kjはデビューから16年を振り返り、「これまでに受けとった多くの喜びと、乗り越え難い悲しみを再び音楽に変えて鳴らし続ける」とこれからの決意を語っている。5月29日にリリースする25thシングル『Here I Am』の一節、「消せないくらい深く残る傷、それさえ歌い繋ぐことできる」には歩き出した彼らの気持ちがこもっているようだ。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)