エンタがビタミン

writer : maki

【エンタがビタミン♪】「滝沢が嫌いだった」「セットは借り物」「素手でドラム」。関ジャニ∞の壮絶な下積み時代。

ジャニーズのアイドルグループ、関ジャニ∞のメンバー2人が、先輩グループTOKIOの冠番組『5LDK』に出演した。お互いによく知る間柄だけに、村上信五や横山裕もTOKIOでさえ知らぬ裏話を明かしたのだ。松岡昌宏などは彼らの辛い下積み時代に聞き入って同情の眼差しで見ていた。

関ジャニ∞の名前の由来をご存知だろうか。よほどのファンで無い限りは『関西ジャニーズで8人組』(当初は内博貴を含む8名で結成された)という理由で命名されたと思いがちだ。だが、7月26日に放送された『5LDK』で村上信五と横山裕が説明したところでは少し事情が違っていたのである。

ジャニーズJr.は関東と関西にあり、彼らは関西ジャニーズJr.として関西テレビの番組『J3KANSAI』に出演していた。「いつまでも『ジュニア、ジュニア』って呼ばれるのもなんやし、KAT-TUNとか後輩も名前がついたし」と村上信五が思い立ち、ジャニー喜多川社長に“かっこいい”グループ名をつけて欲しいと頼んだのがきっかけだ。

ジャニー社長は「わかった、僕にまかしといて」と引き受けて考え付いたのが、『関ジャニ∞』(はじめは“KANJANI8”や“関ジャニ8”と表記された)だった。村上は内心『パッとしない名前やな』と思ったが、社長によると「Youたちは関西テレビでレギュラー持ってるでしょ。ぴったりだよ」と関西テレビの“関”とチャンネル番号の“8”から”関ジャニ8”だと説明したのである。デビューする時に“8”の文字が“∞”に変更されたという。

それよりもさらにさかのぼった頃だ。村上信五と横山裕がジャニーズのオーディションを受けた際に、審査員を務めたのが滝沢秀明だった。その後、滝沢はドラマなどでも活躍すると今井翼と“タッキー&翼”を結成して絶大な人気を得るのだ。

村上は関西ジャニーズJr.時代には「滝沢が嫌いだった」と言い切る。横山も「タッキーが売れるから僕たちが売れないと思っていた」と明かすのだ。2人ともいま思えば「嫉妬していたんですね」と当時の胸の内を語った。

やがて関ジャニ∞が2004年8月にシングルデビューする。人気に火がつきはじめたのは2007年頃だが、本格的にブレイクしたのは2010年にドラマ『GM~踊れドクター』主題歌として起用された「LIFE~目の前の向こうへ~」からといえそうだ。グループを結成してからも数年間は低迷を続けたのだ。

そんな低迷期のエピソードを2人は語った。デビュー時にPV撮影が行われた場所は白い壁と白い床の“白ホリ”と呼ばれる安易なセットだった。撮影所に設置された冷蔵庫から飲み物を選ぼうとすると、「ストップ! 腐ってるからダメ」と注意されたという。

またセカンドシングル「大阪レイニーブルース」のPV撮影ではメンバーが集まらないからと4人だけで撮影した。しかも晴れた日に大阪の街を傘をさして歩いたのである。TOKIOの松岡昌宏もそんな2人の話に聞き入った。

大阪城ホールでようやく関ジャニ∞として初のライブができたときには「床はタキツバのセット。バックはTOKIOのセットの借り物でしたからね」と村上が明かした。国分太一も「セットが借り物だったっていうこと!?」と信じられない様子だった。

ライブのオープニングでは彼らのデビュー曲「浪花いろは節」をドラムの大倉忠義が和太鼓を打ち鳴らしながら始まる設定だった。ところがスタッフが“太鼓のバチ”を忘れてしまい太鼓の前で構える大倉に、ステージ下から「ゴメン! バチ忘れた!」と伝えたのである。

「曲は始まっているので大倉は素手で叩いてましたからね」と村上は正拳突きで叩く振りをしてみせた。これにはTOKIOでドラム担当の松岡昌宏が「大倉は男だわ! カッコイイよ!」と感激していた。村上も「大倉は凄いですよ」とその時の彼の姿には感動したという。

このように関ジャニ∞がデビューしてしばらくはなぜか“一流扱い”されなかった節がある。だが、それを乗り越えてきたことが今の彼らの人気の下地となっているとすれば、時間をかけて積み上げただけに根強い。映画『エイトレンジャー』も7月28日より公開された。これからますます関ジャニ∞のファン層が広がりそうである。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)