映画作者の心象風景、時として病的なまでの心的外傷を映像として表現した映画作品として、類似性のある2作品を紹介したい。
ひとつは、寺山修司の代表作として知られている「田園に死す」。もうひとつはロックファンにとっては非常に有名なピンク・フロイドの同名コンセプトアルバムの映画化「ザ・ウォール」である。
この2作とも、統一したコンセプトは持っているものの、起承転結を持った明確なドラマツルギーはなく、シーンごとの美とメッセージ性の連続で構成されている。
また、両作品とも音楽が重要な構成要素を占め、特に「ザ・ウォール」は踊りこそないが、ミュージカル映画的な要素を持っている。
「田園に死す」のコンセプトは、捨て去りたくても捨て去ることのできない、故郷の呪縛と母親の過干渉的愛情であり、これらを映画制作という場を借りて捨て去ろうとするドキュメントになっている。
青森恐山の異形の光景、奇怪なサーカス、間引き、母親の過干渉など寺山の少年時代における原風景が、鮮烈な映像美となって描かれる。
一方、アラン・パーカー監督による「ザ・ウォール」は、人間と人間、人間と社会そして社会と社会の相互理解を阻むものの象徴としての「壁」がテーマである。
主人公の幼少期における母親の過保護(これも「田園に死す」に相通ずる)や、教育体制、主人公が大人になって入りこむことになったロックビジネスの虚飾性などによって、徐々に壁が築かれ、やがて完全に構築された壁の内側でわき起こる想念や幻影が映像として描かれる。
そして、この両作とも教訓めいた結論は一切ない。どうにもならないことは変えようがないというエンディングを持って、映画の顛末をどうするかは全て観衆に下駄を預ける格好である。
こうした試みは、実験的シネマシアターなどでは行われてきたものの、メジャー作として発表された映画としては、非常に希有な存在と言えるだろう。
特に、「田園に死す」を寺山修司のことを一切知らない若い観衆が見たら「ホラー映画」だと思うのではないだろうか。
それはそれで正直な感想として間違ってはいないだろう。集落の古い慣習も一種のホラーであり畏怖の対象なのである。
(TechinsightJapan編集部 真田裕一)